秋篠宮さまパラグアイご訪問                                            戻る

秋篠宮さまは2006年11月に南米のパラグアイをご訪問され、日本とパラグアイの友好親善に大きな役割を果たされました。日本ではほとんど報道されませんでしたが、パラグアイやブラジルの日系紙を中心に大きく報道され、日系移民の方達も秋篠宮さまのパラグアイご訪問を大変喜ばれたようです。


以下の記事はhttp://www.geocities.jp/paraguaymiya/akishinonomiya-001.htmよりの引用です。

秋篠宮様パラグアイ訪問(2006年11月01〜04日

秋篠宮文仁親王殿下がパラグアイを4日間の日程で訪問されました。1日昼前にアスンシオン空港に到着されました後、ドゥアルテ大統領と会談されました。

秋篠宮さま、パラグアイ大統領と会談=お子さまの話で盛り上がる(時事)
公式訪問のため、1日昼(現地時間)に南米パラグアイの首都アスンシオンに到着した秋篠宮さまは同日夜、大統領府でドゥアルテ大統領と会談された。秋篠宮さまは、9月に行われた日本人移住70周年記念式典への大統領の出席に感謝の意を表された天皇陛下のメッセージを伝達するとともに、パラグアイ招待への礼を述べた。約30分間にわたる会談で、9月に長男の悠仁さまを授かったばかりの秋篠宮さまと、子供が6人いるというドゥアルテ氏は、子供や家族の話で盛り上がったという。この後、秋篠宮さまは大統領主催の政府要人との晩さん会に臨んだ。 

秋篠宮さま大統領と懇談 パラグアイ訪問で(共同)

【アスンシオン1日共同】日本人移住開始から70周年を迎えたパラグアイを訪れている秋篠宮さまは1日(日本時間2日)、首都アスンシオンの大統領府で、ドゥアルテ大統領と懇談された。大統領が「これまで日本から受けた農業などでの支援に感謝します」と話すと、秋篠宮さまは「貴国の発展に寄与したことをうれしく思います」と答えたほか、両国の友好関係の増進を願う天皇陛下からのメッセージを伝えた。悠仁さまの誕生についても話題となり、大統領が「お祝い申し上げます」と祝福すると、秋篠宮さまは「ありがとうございます」と述べた。大統領主催の夕食会も開かれ、秋篠宮さまはパラグアイ政府の閣僚や日本人会の関係者らと歓談。これらに先立ち、スペインからの独立戦争などを戦った指導者をたたえた英雄廟で献花した。沿道から「プリンス」と呼び掛けられ、笑顔で手を振る場面もあった。

コロニア長老と親しくご懇談 暖い労りのお言葉 《パラグアイ日本人会秋篠宮さま歓迎会》
一日より来パされている秋篠宮さまの歓迎式典が二日、パラグアイ日系十二団体主催でアスンシオン市内にあるパラグアイ日本人人造りセンターで行われた。イグアスやピラポなどの各日系人移住地から駆けつけた人々も多く、集まった約六百人の人々は秋篠宮さまのパラグアイ訪問を喜んだ。悠仁親王のご誕生により、九月八日にイタグア市のセントロ日系で行われたパラグアイ日本人移住七十周年記念祭典への出席が叶わず延期になっていた秋篠宮さまのパラグアイ訪問。午後五時、式典会場は秋篠宮さまの到着を待ちわびた人々で一杯になった。(廣井あゆみ記者)

大統領とご懇談 独立戦争英雄廟に献花も
日本人移住開始から七十周年を迎えたパラグアイを訪れている秋篠宮さまは一日、首都アスンシオンの大統領府で、ドゥアルテ大統領と懇談された。大統領が「これまで日本から受けた農業などでの支援に感謝します」と話すと、秋篠宮さまは「貴国の発展に寄与したことを嬉しく思います」と答えたほか、両国の友好関係の増進を願う天皇陛下からのメッセージをお伝えになられた。悠仁さまの誕生についても話題となり、大統領が「お祝い申し上げます」と祝福すると、秋篠宮さまは「ありがとうございます」と答えられた。大統領主催の夕食会も開かれ、秋篠宮さまはパラグアイ政府の閣僚や日本人会の関係者らと歓談。これらに先立ち、スペインからの独立戦争などを戦った指導者を称えた英雄廟で献花した。沿道から「プリンス」と呼び掛けられ、笑顔で手を振る場面もあった。

(写真:1日、アスンシオンの大統領府でパラグアイのドゥアルテ大統領と握手される秋篠宮さま:ロイター=共同)


当地の新聞でも大きく取り上げられています。最大紙のABC紙は表紙トップの写真に秋篠宮親王殿下が英雄廟に献花される様子を掲載していました。



(写真:空港にて:ナシオン紙)







(写真:パンテオンにて:ABC紙)



(写真:3日、アスンシオン中央卸売市場でナマズをご覧になる秋篠宮さま・ロイター)


秋篠宮さま巨大ナマズとご対面 ご訪問先のパラグアイで (共同)
日本人移住開始70周年を迎えたパラグアイを訪問中の秋篠宮さまは3日(日本時間4日)、日本の学校教育をモデルに運営されている現地の私立学校「ニホンガッコウ」を視察された。幼稚園から専門学校までパラグアイ人の児童・生徒ら約1600人が通っており、この日は和服姿での日本舞踊や日本語の合唱で歓迎。秋篠宮さまは、折り紙で丁寧な作業や忍耐力を学ぶ授業を見学された。秋篠宮さまはほかに、日系人の子供の一貫教育を目指す日本パラグアイ学院や知的障害児の福祉施設もご訪問。アスンシオン中央卸売市場に立ち寄った際には、売られていた体長1.5メートルを超すナマズを前に、種類などの説明を受けられる場面もあった。秋篠宮さまは4日、全日程を終え、次の訪問地のチリへ出発された。チリ滞在後、ニュージーランドに立ち寄り、7日帰国される。


秋篠宮さま、巨大ナマズと対面=パラグアイの市場を訪問(時事通信)
パラグアイを公式訪問中の秋篠宮さまは3日、首都アスンシオンの中央卸売市場を訪れ、巨大ナマズなど南米の珍しい魚類や野菜を見学された。内陸国パラグアイでは、牛肉とともに「スルビ」と呼ばれるナマズが広く食されている。秋篠宮さまが訪れた鮮魚店の店先には、取れたての体長155センチ、体重35キロのスルビが並べられた。 

嬉しそうな笑顔でご覧になっています。やはり殿下はなまずがお好きなのですね。当地で殿下が訪問されるということで、この大ナマズのスルビをご覧になっていただきたいという話が多くありました、実現して良かったです。

大耳小耳(ニッケイ新聞)
秋篠宮さまは十月十六日にわざわざ、東京のパラグアイ大使館をご訪問になり、田岡功パ国大使から事前説明をお受けになっていた。そのときの様子を、「殿下は川魚を研究されているだけあって、とくにスルビ(なまず)に興味を示されました。魚類に関しては私より詳しいので驚きました」と振り返る。「お出ししたマテ茶もお代わりされ、日本移民の話にも耳を傾けられました」という。その経緯もあってか、来パ初日の大統領主催晩餐会には「スルビとエビのマヨネーズ和え」が出されたとか。

モザイク(サンパウロ新聞)
一日から四日までパラグアイをご訪問された秋篠宮さまは三日、アスンシオンの中央卸市場を訪問、鮮魚やそ菜、薬草コーナーなどを熱心にご視察された。鮮魚コーナーでは特に鯰類科の一・五五メートル、三十五キロという巨大な愛嬌のある顔の『スルビ』に関心を持たれ、モリナス場長に盛んに質問をされておられた。出来ることなら日本へ御土産にお持ち帰りたいそう。また、薬草コーナーでは『テレレ』と言われるパラグアイ特産のマテ茶について説明を受けられ、丁寧にメモをお取りなになっておられた。健康に良いお茶と言われるので紀子さまや、お子様の真子さま、佳子さまのご健康のために愛用されることも。

秋篠宮さまパラグアイご訪問=特大スルビに感嘆!=市場労働者が拍手送る
パラグアイを訪問された秋篠宮さまは三日、青年海外協力隊とのご懇談のあと、アスンシオン中央卸売市場をご視察され、鮮魚や薬草売り場などをご覧になった。なかでも一メートル五十五センチ、三十五キロの特大スルビ(なまず)には興味を示され、詳しく説明をお聞きになり、メモをとられる場面もあった。赤白のワンピースを来た学校教師、親日家のフィデリーナ・オゾーリオさんは「日本が大好き。プリンシペ(王子)をひと目見たくてやってきました」と手に持った日の丸を広げて見せた。青果売り場の入り口脇階段に並んだ一般労働者から拍手が送られた。連日、現地の新聞では皇室関係の記事や写真が第一面を飾る高い注目ぶり。秋篠宮さまが移動すると、市場内に詰めかけたたくさんの報道陣が一斉に移動し、市場労働者たちは突然の取材合戦に驚いていた。市場内ある日系農業協同組合中央会事務所に勤務する秋田麻美さん(38)は「こんな汚いところなのに、よく見ていただいて嬉しい」と恥ずかしそうに喜んだ。大前美子さん(48)も「まさかほんとに来られるとは。別ブロックから追っかけみたいに来ちゃいました」と興奮冷めやらない様子だった。その日はさらに日本パラグアイ学院、ニホン・ガッコウを訪れ、夜は大使公邸で飯井大使主催のレセプションに出席され、招かれた日系社会代表者らと親しく懇談した。

ラ・コルメナ訪問(2006年11月02日)
秋篠宮親王殿下はラ・コルメナを訪問されました。



最初の日本人移住地訪問=秋篠宮さま、先人の苦労しのぶ(時事通信)

【アスンシオン2日】日本人の移住開始から70年になるパラグアイを訪れている秋篠宮さまは2日、最初の移住地となったアスンシオン南東150キロのラコルメナを訪問された。パラグアイの日系人は1980年代に4万人にまで膨らんだが、その後、日本に帰国する住民が相次ぎ、現在は1万人程度まで減った。飯野建郎駐パラグアイ大使によると、紀子さまは悠仁さまを出産されたばかりであるため、同行を見送った。同大使は「秋篠宮さまのご訪問は、二国間関係を強化し、日本の対パラグアイ支援の状況を視察するのが目的だ」と語った。日本とパラグアイは1919年に外交関係を樹立している。秋篠宮さまはこの後、チリを訪問し、7日に帰国する。 

【アスンシオン2日時事】パラグアイを公式訪問中の秋篠宮さまは2日、入植70周年を迎えた同国南部にある最初の日本人移住地ラ・コルメナ市で、移住者や日系人と懇談された。歓迎式典で、秋篠宮さまは入植当時の移住者の苦労をしのばれた上で、「移住者、日系人の方々が社会のさまざまな分野で活躍するとともに、パラグアイ国民から高い評価を受けるに至っていることは大変喜ばしく、心から敬意を表したく思います」とあいさつした。

労いのお言葉かけられる ラコメルナ移住地ご訪問
日本人移住七十周年を迎えたパラグアイを訪問中の秋篠宮さまは二日、一九三六年に日本人が初めて移住したラコルメナを訪れ、移住一世のお年寄りたちに「長年ご苦労さまでした」「これからもお元気で」とねぎらいの言葉を述べられた。 ラコルメナ公民館で開かれた歓迎式典には、約百人の日系人関係者が出席。秋篠宮さまは、移住者がパラグアイ農業の発展に貢献したことなどに触れ「大変喜ばしく、心から敬意を表したく思います」とあいさつ。その後、出席した移住一世十三人の一人一人に笑顔で語り掛けた。二十一歳で岡山県から移住し、家族とブドウなどの農場を営む岡田米さん(八六)は「『長生きしてください』と言ってくれました。こんな遠くまで日本から来ていただき本当に感激です」と目に涙を浮かべた。秋篠宮さまはこの日午後、アスンシオン日本人学校も見学。約五百人が集まった各種日系人団体による歓迎会では「これからも両国の懸け橋でいてください」と話し、参加者と懇談した。

移住者にねぎらいの言葉(ニッケイ新聞)
=パラグアイ=秋篠宮さまラ・コルメナご訪問=勤勉さや不屈の精神讃える
パラグアイ日本移民七十周年を記念して一日に訪問された秋篠宮さまは二日午前、同国最初の日本人移住地、ラ・コルメナを訪れ、高齢者などと会話され、「いつ頃来られたのですか」などと気軽に歓談し、ねぎらいの言葉をかけた。当日は市条例がだされて学校は臨時休校に。コルメナ公民館前の沿道にはパラグアイ人生徒約二百人以上が両国の小旗を持って参集し、ご到着を一時間以上も前から待ちかまえていた。ラ・コルメナはアスンシオンの南東百五十キロ地点にあり、同国では唯一の戦前移住地。ブラジル拓殖組合が手がけ、宮坂国人らが乗り込んで造成したとあって、伯国とも縁が深い。

午前十時半、秋篠宮さまの乗った車を真ん中にして隊列を組んだ一団が到着。公民館の前庭には、同日本人文化協会の千葉玄治郎会長と、宮本浩一エドワルド市長代理(三世)が出迎えた。移住者が望郷の念をつのらせ「パラグアイの富士山」と愛称をつけて呼び慣わした近隣にある山、通称〃コルメナ富士〃の絵が背景に書かれた舞台の上、秋篠宮さまは席につかれ、両国国歌が演奏された。宮本市長代理は緊張した面持ちで、「殿下のご訪問は、二つの異なる文化が力を合わせて発展してきたこの地に、新しい歴史を刻むもの」と歓迎のあいさつをした。次に千葉会長は移住地の歴史を振り返り、三六年の創立以来、百三十八家族、八百四十四人が入植し、現在のこっているのは三百五十七人と説明した。市人口の六%が日系人だ。四八年に農協が発足、五六年に同文協が設立され、十四年前には日本政府からモデル農村プロジェクトとして支援を受け、「小規模ながらも生活は安定してきている」と報告し、「天皇皇后両陛下にもよろしくお伝えください」としめた。これに対し、秋篠宮さまは「日本人の入植当時、ラ・コルメナは一面原始林に覆われ、移住者の方々には筆舌に尽くせないほどのご苦労があったと伺っております。志半ばにして逝去された方も少なくなく、ここに謹んでご冥福をお祈りしたいと思います」とのべられた。

さらに「移住者の方々は、勤勉さや相互扶助、不屈の精神をもってあらゆる困難を乗り越え、今日の日系社会の基盤を築かれただけではなく、主として農業分野を通じて、パラグアイの経済発展に大きな貢献をしてこられました」とのお言葉を送った。会場に集まった約百人の地元日系人は大きな拍手でこれに応え、宮本市長代理は記念プレートを贈った。「ラ・コルメナ『蜜の里』」と書かれたハッピを着た日本語学校生徒五十九人は、約二カ月かけて練習してきた「みちのくヨサコイ乱舞」を元気に披露。殿下は楽しそうに観覧された。秋篠宮さまは高齢者約十人とご懇談され、会館裏手にある宮坂国人公園内の慰霊碑にご献花、記念プレートを除幕した。次に日系人に深い縁のある故ミランダ女史像をご視察された。午後はアスンシオン日本人学校をご視察し、生徒代表から花束を贈呈された。

秋篠宮さまが慰労の言葉【アスンシオン2日共同】
日本人移住70周年を迎えたパラグアイを訪問中の秋篠宮さまは2日(日本時間同日)、1936年に日本人が初めて移住したラコルメナを訪れ、移住1世のお年寄りたちに「長年ご苦労さまでした」「これからもお元気で」とねぎらいの言葉を述べられた。ラコルメナ公民館で開かれた歓迎式典には、約100人の日系人関係者が出席。秋篠宮さまは、移住者がパラグアイ農業の発展に貢献したことなどに触れ「大変喜ばしく、心から敬意を表したく思います」とあいさつ。その後、出席した移住一世13人の一人一人に笑顔で語り掛けた。21歳で岡山県から移住し、家族とブドウなどの農場を営む岡田米さん(86)は「『長生きしてください』と言ってくれました。こんな遠くまで日本から来ていただき本当に感激です」と目に涙を浮かべた。秋篠宮さまはこの日午後(日本時間3日)、アスンシオン日本人学校も見学。約500人が集まった各種日系人団体による歓迎会では「これからも両国の懸け橋でいてください」と話し、参加者と懇談した。


秋篠宮親王殿下奉迎式典(2006年11月02日)

本日、アスンシオン市内・人造りセンターにおきまして、日系団体合同で秋篠宮殿下をお迎えして奉迎式典が開催されました。午後5時前に会場に到着されました殿下、最初に入口でアスンシオン日本語学校の生徒と各団体の長がお迎え、日本とパラグアイの小旗を持って歓迎しました。

式典では日系側代表者の挨拶に続き殿下がお話をされました。アトラクションとして鬼剣舞をご覧いただき、小休憩があり、移住地の写真展、商工会が中心として行なった物産展示、農協が中心となって行なった農産物展示をご覧いただきました。その後年配の方との懇談会に出席されました。

(ニッケイ新聞)秋篠宮殿下歓迎会が行われた、壮麗なギリシア建築のような「人造りセンター」は、八六年に日本からの約十五億円の無償支援によって建てられた総合文化体育センター。アスンシオン市に運営が託され、日パの友情のシンボルとして活用されている。金額といい、規模といいまさに百周年でも歓迎されそうな「箱モノ」の典型。当時は、日本がバブル経済の真っ最中だったから可能なことだったのだろう。

気軽に高齢者とご歓談伯国からの転住者も
「黒石清作のブラジル時報読んでましたよ」。三六年、最初の入植者十家族の生き残り、飯原善広さん(90、東京都出身)は懐かしそうに語った。「殿下から、なにをやっているのですかと聞かれたので、ゲートボールをやってますと答えたら、ニッコリされました」。渡伯は三二年。モジアナ線フランカ近くに入植した。ブラ拓がブラジル時報に出したパラグアイ転住を進める広告を見て、決意したという。「ブラジルでは自分の土地を持つのは難しいと思ったから」と動機を説明した。ラ・コルメナではずっと綿作一筋だった。「私がこっちにきて翌月に、日本から第一回入植者が来た。僕らは〃番外〃ですよ」。初期移民らしく豪快に笑い飛ばした。その第一回移民、後藤喜代江さん(80、山梨)は殿下に「いつ頃来られたのですか」と聞かれた。三六年四月に神戸港を出航した十一家族は、七月十八日に亜国ブエノスアイレスへ。そこからラプラタ川を川船で一週間かかってアスンシオン入り。さらに鉄道でイビチビ駅まで。「駅ったって、ただのカンポ(野原)ですよ。すごいところに来たって、びっくりしました」。そこから四頭立ての牛車で一日かかって到着した。当時は十歳。「まるっきり山の中。ほんとひどいとこへきたもんだって思いましたよ」と笑う。鈴木八しまさん(72、長野)は「日本はどこですか」と尋ねられ、「長野県諏訪市です」と答えた。三八年、まだ二歳だった。殿下の印象を問うと「ほんとに物静かで、上品なお方だと思いました」と感心したように何度もうなずいた。

ようこそ秋篠宮さま 日本人移住70周年迎えた (サンパウロ新聞)
《パラグアイをご訪問へ》今年、日本人移住七十周年を迎えたパラグアイを秋篠宮さまが訪問。二日、パラグアイ最初の日本人移住地であるパラグアリ県のラ・コルメラを訪れた。同地は一九三四年にブラジルで発令された移民二分法により日本人の移住が制限されたことにより、新たな日本人移民の移住地として一九三六年から一九四一年の戦前には三十八家族、八百四十四人が移住した。現在、日本へ出稼ぎに行く若い世代の空洞化はあるが、主に農業や商業を生活の基盤とする三百五十七人の日系人が暮らしている。(廣居あゆみ記者)《日系挙げて心からの歓迎》秋篠宮さまはご予定通り午前十時半、ラ・コルメラ文化協会(千葉玄治朗会長)にご到着した。秋篠宮さまは日パ両国の旗を振り歓迎する子供たちに手を振った後、式典の行われる会場に入った。

両国国歌が斉唱され、エドアルド・コウイチ・ミヤモト市長代理が移住地を訪問されたことへの感謝を述べ、ご来訪記念のプレートを秋篠宮さまに贈られた。続いて、千葉会長が「移住地ご訪問は忘れることのできない喜び」と述べ、一九四八年の農協発足、一九五六の発足など七十年にわたる同移住の歴史、市の人口の六%を占めている現在の日系人の状況を紹介した。秋篠宮さまはお言葉のなかで「当地まで、緑豊な美しい自然を見ながら参りましたが、移住当初はラ・コルメナは一面原始林に覆われ、筆舌に尽くせないご苦労があったと伺っております」と話された。また、同地が「果物の都」と呼ばれていることに触れ「果樹や蔬菜の栽培において全国的な名声を博するに至っているのは、皆様の努力の賜物に他なりません」と移住者の功績を称えられた。次に、秋篠宮さまは一九三六年に移住した根岸はなさん(群馬県出身、九十一歳)をはじめとする高齢者十三人とご懇談した。林しげさん(八十六歳)は秋篠宮さまに「日本に帰るつもりだったけど、帰れませんでした」と話したところ「いいところなのでがんばってくださいと言われました」と話した。その後、秋篠宮さまは同会館に隣接する宮坂国人公園にある慰霊碑に献花され、ご参拝記念のプレートを除幕された。

式典では今年三月にできたばかりの同地の日本語学校の生徒たちが構成する密乃里によるよさこいも披露された。同校の高橋美佐子校長(六十一歳)によると子供たちは秋篠宮さまの同移住地への訪問が決まってから毎日猛練習をしてきたそうだが「最初は殿下が来ることを話しても実感ができないまま練習している子もいた」という。一歳の時、第一次移住の家族としてパラグアイに渡った関淳子さん(七十一歳)は「秋篠宮殿下に来て頂き、一気に今までの苦労が吹き飛んだ気がします」と話した。式典に参加した約百六十人の人々はアスンシオンに戻る秋篠宮さまを全員で見送り、「自分たちの移住地に来てくださるなんて光栄なこと」「お会いできて嬉しかった」とそれぞれ語っていた。


《コロニア「苦労報われた」と感動 アスンシオン名誉賓客称号受けられる》
秋篠宮さまが会場にお見えになると、全員が起立し拍手で迎え、秋篠宮さまはゆっくりと会場全体を見回され、席につかれた。両国歌斉唱の後、小田俊春パラグアイ日本人連合会会長が挨拶。パラグアイ日系人移住七十周年の歴史を「太古の原始林のなかに次々と開拓、移住地が開設され、八千人近い移住者が入植した。農業面では、移住者は長年の試行錯誤を重ね、かつて輸入に頼っていた小麦を国産化し、大豆を輸出第一次産品に育て、パラグアイを大豆輸出国第四位にさせる原動力となった」と話した。また様々な分野で現在活躍する日系人の姿を挙げ「開拓の苦しい日々、その日の糧に追われながらも日本人の気質を日系子弟に植え付けた日系一世の最大の功績」とし、そして、今回で三度目となる皇室のご訪問を「小さな日系社会を常に御心にかけえていただき深く感謝します」と述べた。

秋篠宮さまはお言葉のなかで「皆様と共に移住七十周年をお祝い出来ますことを心から嬉しく思います」と述べられ、「本日コルメナ移住地を訪問し、入植された人々が幾多の困難を乗り越え、日系社会の基盤をつくり、パラグアイの社会のなかに溶け込み、発展に貢献したことを見聞し感銘を受けました」と同日のラ・コルメナ移住地訪問の感想を述べられた。そして「日本とパラグアイは地理的に離れているが緊密な関係を培ってまいりました。移住者と貴国に人々の繋がりが基礎にある言えましょう。今後とも皆様には両国の良き掛け橋となっていただくことを願っています」と話された。続いて、リエラ・アスンシオン市長から「市の鍵」の贈呈、「名誉賓客」称号が授与され、その後、アスンシオン鬼剣舞愛好会により岩手県に伝わる鬼剣舞が披露された。秋篠宮さまは異国の地で継承される日本文化をご覧になられた。歓迎式典終了後、秋篠宮さまはパラグアイ日系団体の幹部らとご懇談し、移住者写真展、農物産展をご覧になられた。写真展を案内したパラグアイ日本人連合会の合田義雄さんによると、秋篠宮さまは展示されている入植当時の写真を一枚、一枚丁寧に見られながら説明を聞かれていたという。また、農物産展では展示されていたイグアスで作られた太鼓に興味をお示しになり、「実際に太鼓を叩かれ、日本で作られたものとの音の違いについて聞かれ、カナフィートというパラグアイ原産の固い木で作っているので音がしっかり反響し日本の太鼓に負けないいい音がしますと説明しました」とイグアス太鼓工房の澤崎琢さん(三十三歳)は話した。

続いて行われた歓迎祝賀会では、河野敏日系農業協同組合中央会会長が歓迎の挨拶を述べ、秋篠宮さまと高齢者とのご懇談が行われた。秋篠宮さまと懇談したアマンバイ在住の下元米次郎さん(八十歳、高知県出身)は「殿下に開拓当初のことについて聞かれ、焼畑農業について説明し『焼けすぎ三年、不焼け三年』と焼けすぎだと土の表面の養分がなくなり、不焼けだと害虫が残り三年苦労することをお話した」という。秋篠宮さまは非常に興味を持たれ、ポケットからノートとペンを取り出され、メモを取られたそうだ。下元さんは「近くでお会いできるだけでも奇跡なことなのに、開拓当時のことを聞いて頂け、名誉なことです」と感激の面持ち。また、イグアス在中の向井香さん(八十七歳、愛媛県出身)は一九七八年に皇太子同妃両殿下時代にパラグアイを訪問された天皇皇后両陛下と会い、言葉を交わし、翌年にも日本でも海外日系人大会に参加した際に天皇皇后陛下に再度お会いしたという。「パラグアイでお会いしたのを覚えていてくださり、イグアスの婦人会の方ですね。お名前はと聞かれました」と話す。今回、秋篠宮さまと懇談し「天皇皇后陛下とお会いしたのがこの間のような気がして懐かしく思い出します」と目に涙を浮かべていた。二時間半にわたる式典・祝賀会を終え、秋篠宮さまを拍手で見送った人々は少し肩の力がおりた様子で秋篠宮さまに会えた喜びを互いに語り合っていた。




(写真:サンパウロ新聞)

政府支える人材育成を=パラグアイ=秋篠宮さま日パ学院ご視察(ニッケイ新聞)
日本語とスペイン語のバイリンガル教育を特徴とし、二〇〇一年に開校したばかりの日本パラグアイ学院(栗田メルセデス院長)を、秋篠宮さまが三日午後訪れ、授業の様子などをご視察された。同国には珍しい全日制で、毎日四時間も日本語による教育がある。ブラジルでは日伯学院構想が浮沈を繰り返しているが、隣国では強力なリーダーシップにより、一足先に実現にこぎつけ、創立五年あまりで皇室のご視察を受けるなど、評価を固めつつあるようだ。「あるこーっ(歩こう)、あるっこー。わたしは元気。歩くの大好きっ。どんどんゆこおっ」手に持った日パ両国の小旗を振りながら、アニメ映画『となりのトトロ』のテーマソングを力一杯歌う子供たちの声が、先週完成したばかりの体育館にこだました。栗田院長は「子供たちが、殿下の前にこの歌を合唱したいって、自分たちで選んで練習したんです」と興奮冷めやらない様子で説明した。

首都アスンシオンの閑静な住宅街の一角、六千六百六十五平米の土地には、もともとあった邸宅を拡張した現校舎と、万博基金の支援を受けて、十二月に完成予定の二階建ての新校舎がならぶ。現在、幼稚園から小学五年生まであり、全生徒数は七十四人。二〇一三年には高校部まで揃える予定だ。一クラス二十人以内の少数精鋭の授業方針をもち、教職員は二十五人もいる。同学院基金の資金は、日本車販売店網を経営する豊歳直之理事長自身が捻出しており、その強力なリーダーシップによって運営が支えられている。豊歳マリオ理事長代行(35、二世)は「最初は誤解があって反対する動きもありましたが、何とか乗り越え、だんだんとみなさんへの理解が進んできている」と胸を張る。豊歳理事長の次男で、理事長は現在訪日中。「日本的な特質を持って、次世代のパラグアイ発展に尽くせる人材を育成するのが目標です」。八六年の移住五十周年の頃から、学院設立の構想はあった。六十周年の時、先進地メキシコの日墨学院を関係者が視察。〇〇年の日本人会総会で日本語学校の使用が許可され、同一二月にパ国文部省から認可がおり、翌〇一年に幼稚園生九人から始まった。長男のマルセーロさんも「最初は十人にもならない人数からだった。殿下に来て頂けて本当に嬉しい」と笑顔を浮かべ、「日本を大切に思ってくれるパラグアイ人を育てることが大事。将来、政府をしょって立ち、日本と気持ちよく交渉する人材が育ってほしい」と期待を述べた。

秋篠宮さまは日本語やスペイン語の授業、合気道の練習風景を視察され、興味深さそうに壁に貼られた生徒の絵などの作品に見入っていた。栗田院長によれば、校内のあちこち張られた皇室の写真などを見て、「嬉しそうにされていました」という。同校の特徴の一つは、日本から来た三人のボランティア教師だ。川奈部くに子さんは日本の中学校で三十五年間も英語教師をした経験を持つ。早期退職を申し出て、三ヵ月前から同校で教える。日系子弟は三割程度だが「日本語はお遊びではありません。シビアに成績表をつけています」と強調する。午前中のパラグアイ式教育カリキュラムと、午後四時間ある日本語による授業と別々に成績表をつける。午後のうち二時間は日本語教育、残りは家庭科、書道、囲碁、合気道、音楽、コンピューターなどだ。インターネットで教員募集を知り、〇五年一月から教員をする出口優香さんは「ゴミを床に捨てはダメと学校で教えても、家に帰ったら家族が捨てている。そういう文化の違いを教えるのが難しい」と語った。子供たちは手製の特別カレンダーを贈り、秋篠宮さまは公式サッカーボール三個、備前焼の犬の置物、犬の埴輪、『昔のくらしの道具事典』(岩崎書店)など本二冊を賜った。




日本語で歓迎の生徒たち 秋篠宮さま、ニホン・ガッコウご訪問(サンパウロ新聞)
一日からパラグアイをご訪問されていた秋篠宮さまは三日、首都アスンシオンと隣り合うフェルナンド・デ・ラ・モラ市にあるニホン・ガッコウを視察された。ニホン・ガッコウは横浜国立大学に留学し教育学を学んだ経験のあるオルテガ夫妻が一九九三年に設立した学校。幼稚園と小中学校一年から八年生まで約二千人の生徒が通い、そのうち日系人は三十人となっている。日本語の必修の授業があるほか、お茶や空手など日本文化を学ぶことができる。また、二年に一度、数十人の生徒たちは修学旅行で日本を訪れ、皇室を訪問している。午後四時半、生徒たちは念入りな歓迎のリハーサルを済ませ、日本とパラグアイ両国の旗を手に秋篠宮さまのご到着を待った。ディポニッシオ・オルテガ校長(五十五歳)の案内で校舎に秋篠宮さまがお見えになると、全生徒が「日本の友達、こんにちは。パラグアイへようこそ」と学校の教師らが作った日本語の歌を歌い迎えた。歓迎を受けた秋篠宮さまは、にこやかな表情で歓迎式会場に進まれた。二人の生徒代表が「遠いところからありがとうございます」と日本語で挨拶をし、次に行なわれた両国歌が斉唱では生徒たちは君が代を会場に響きわたる大きな声で歌った。

秋篠宮さまは生徒たちの日本舞踊、パラグアイの民族舞踊ダンサ・パラグアージャをご覧になった後、折り紙、茶道、日本語の授業の行なわれている教室をまわられた。折り紙の授業をご視察中、秋篠宮さまは器用に折り紙を折る生徒に感心したご様子で「私は鶴しか折れないんですよ」と生徒の一人に話し掛けられていた。また、生徒代表とのご懇談もあり、パラグアイのちびっこ歌手コンテストで優勝したことのあるルーベン君(十三歳)は修学旅行で皇室を訪問した際、秋篠宮さまに歌を披露したことがあり「皇居に招いてくれてありがとうございます」と伝えたところ、秋篠宮さまは「君は歌を歌うんだったね」と声を掛けられたという。「子供たちが皇室を訪れた際にいつも『パラグアイに来てください』って言っていたいたからそれが叶ったのかも」と興奮冷めやらぬ様子で語るエルメリンダ・オルテガ教師(四十九歳)。「パラグアイのために日本の文化、教育を取り入れた学校を造りたい」というオルテガ夫妻の思いでできたニホン・ガッコウ。二年に一度の皇室の訪問も「尊敬するということを子供たちに知って欲しい」と一九九八年から初まった。オルテガ校長は「来てくださったことが信じられず、夢を見ているようです」と話していた。



(写真:サンパウロ新聞)

秋篠宮さま帰国 パラグアイなど訪問終え
パラグアイなどの訪問を終え帰国された秋篠宮さま=7日午後、成田空港日本人の移住開始から70周年を迎えたパラグアイなどを訪問していた秋篠宮さまは7日午後、空路で成田空港に到着、帰国された。パラグアイでは、1936年に日本人が初めて移住したラコルメナを訪れ、移住1世のお年寄りたちにねぎらいを述べたほか、ドゥアルテ大統領と懇談した。農業の発展に貢献した日系人や日本に対する関心は高く、現地メディアも訪問を好意的に報道。写真を1面に大きく掲載する新聞もあった。9月に悠仁さまが誕生したことも広く知られており、大統領をはじめ多くの人から祝福の声が寄せられたほか、沿道に集まった人に拍手で迎えられることも多かった。パラグアイの前に訪れたフランスの国立自然史博物館では、世界一の所蔵を誇る各国の野鶏のはく製を見学。野鶏の研究を専門とする秋篠宮さまに、頭蓋(ずがい)骨や卵の標本が贈られた。


樹海(ニッケイ新聞)

秋篠宮さまの取材でパラグアイを訪れ、その日系社会の若さに驚かされた。大半の日本人会代表が戦後移住者で六十歳前後。伯国の平均年齢よりも十歳ぐらい若いと感じた。さらに二世層リーダーも三十代から四十代であり、こちらよりも一世代以上若い▼特に二世の日本語のうまいことに舌を巻いた。まるで日本の若者と話をしているかと錯覚するぐらいだ。しかし、ある二世から「パラグアイの二世はスペイン語ができないのが多い」と興味深い指摘を聞いた。「移住地では、家庭でも仲間内でも日本語ばかり。農場では、パラグアイ人使用人と会話するのはグアラニー語。スペイン語は学校でしか使わないから」と説明▼真偽のほどは不明だが、かつて伯国でもそのような世代があったから想像はできる。逆に、それぐらい強固な共同体でなければ、一般社会からの圧倒的な同化圧力に推されて、継承語は二世代と経たずに消えていく▼伯国では文協内に青年部を作り、後継世代を育てようとした。しかしパ国では、一世中心の日本人会とは別に、二世中心のセントロ日系を組織して会館を独自に建設、九月の七十周年記念式典はそこで挙行した。各々独立しているが協力して祝った形だ。「同じ団体内だと一世が中心になり、二世の好きなことができないから」だそう▼紆余曲折こそあったが、日本的特質を教育に活かす日本パラグアイ学院も〇一年に設立された。強力なリーダーシップの賜物だ▼伯国を他山の石として対策を練ってきたと、日会関係者は口をそろえる。百周年を迎える我々だからこそ、隣国に学ぶ謙虚さがあってもいいと感じた。


全体に新聞記事はブラジルの日系紙が多かったように見えます。これは再来年がブラジル100周年であり、パラグアイの70周年をレポートする事で参考にしようと考えているからだと思います。


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