おめでとう礼宮さま 万能レディー紀子さん、英語は母国語並み

 川嶋紀子さんは、昭和41年9月11日、母・和代さんの実家に近い静岡市の済生会病院で生まれた。

 当時、一家は東京・新宿区早稲田南町に住んでいたが、44年、父・辰彦氏の留学に伴って米・ペンシルベニアへ。紀子さんはここで幼児期(3歳−6歳)を過ごし、帰国後の48年、学習院初等科に入った。紀子さんの英語が母国語同然といわれるのもそのためで、初等科時代の友人は、「日本語にも外国人のような英語なまりがあった」という。

 昭和52年、紀子さんが初等科5年生の時、父・辰彦氏がIIASA(国際応用システム解析研究所)の主任研究員に迎えられたため、48年に生まれた長男舟(しゅう)さんも含め一家4人は、オーストリアのウィーンに渡る。紀子さんは現地のアメリカン・スクールに通って英語に磨きをかける一方、ドイツ語も日常会話に困らない程度にまでなった。

 帰国したのは、54年9月。紀子さんは学習院女子中等科に1年生の2学期から戻り、2年ぶりに日本での生活を始めた。紀子さんは13歳だったが、すでに6年近くを外国で過ごしており、語学をはじめとする国際感覚は、ごく自然に身についたようだ。

 中等科時代は、美術部に所属、十数人の仲間と一緒に週2回、静物、風景画などを熱心に描いていた。スキーもオーストリア仕込みで、3年の時に山形県・蔵王で行われた学校のスキースクールでは、1人だけ上級クラスだったという。当時の友人は「マイペース型で、周囲の人がいろいろ言っても自分のペースを崩さない。それでいて気配りも忘れず、みんなを決して不愉快にしない人だった」と話している。

 女子高等科に進学すると、様々な学内活動に取り組んだ。厚生委員会では、ハンセン病患者のための募金活動の中心に。「私たちがのどの渇きを我慢して、牛乳1本分のお金を出せば、それで何十人もの患者が助かる」と募金活動に奔走した。

 山岳同好会にも所属し、テニスや乗馬なども得意で、「スポーツは万能」と評判だった。友人たちは、そんな紀子さん像を「いつもニコニコしていて怒った顔を見たことがない」反面、「意志が強く、何事もきちんとしている人」と表現する。

 常に前向きの努力家という一面は、高等科の第二外国語に中国語を選択したことにもうかがえる。英語のほか、ドイツ語もできる紀子さんだが、「何でもやってみたい」と、あえて新しい語学に挑戦したという。

 大学は文学部に進み、心理学を専攻した。社会心理学のゼミに属し、卒業論文は「環境心理」。

 講義には欠かさず出席、国文科の書道の単位も取るなど、勉強熱心さは評判で、恩師も、「申し分ない学生」と、称賛の言葉を惜しまない。サークルは、礼宮さまとの出会いの場となった「自然文化研究会」のほか、心理研究会、手話サークルに所属。手話は、文化祭の手話劇を見て感激して始め、言葉が不自由な学生に付き添って講義を受け、通訳をしたりノートを取ったりもしていた。

 この間、スポーツではテニス、スキーなどを続ける一方、毎朝のジョギングも日課に。

 「親しみがあってみんなに優しい」「天真らんまんで、一緒にいると楽しい」「とにかくいい人で、欠点が見当たらない」。大学時代の友人も、一様に紀子さんの親しみやすい人柄を語る。「顔を合わせると、遠くからでも、手を振りながら声をかけてくれる。1度話したことは覚えていて、『あの話はどうなった?』と心配してくれるなど、思いやりのある温かい人でした」と、高校友人の1人。

(1989年8月26日  読売新聞)

引用元http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89082603.htm



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